【コラム】受け手の自由度は文化の未来を創る

日本の文化について、「文化水準が低い」とよく言われているのを聞くが、それはネガティブな意見で捉えて終えてはならない。そしてそれは同時に「文化」というジャンルの可能性を押し潰しているのである。
今回は、誤解されやすい認識についてまとめてみる。是非一緒に考えてみてほしい。

伝え手が思想の押し付けをするという誤認識が生む悲劇

芸術鑑賞の場でよくありがちなのが「感想の統一」である。これは国民性のせいかもしれない。なんとなく「この絵は〇〇だね」「この音楽は〇〇だね」と、周りの総評に合わせてしまう行為である。
人間とは不思議と周りに合わせているようにみせて、実は「〇〇はこういうもの」というレッテルを「作品によって植え付けられた」と勝手に認識するのである。自身でそう思うようにしておいて、知らない間に受動的に仕向けられたという錯覚に陥るのだ。

その行為のせいで起きてしまう悲劇とは、「想像力の根絶やし」である。
「〇〇である、以上」と、そこで想像力をストップしてしまうからだ。

受け手の解釈は“自由”であるということ

感想というのは、言葉に表す必要はない。心に何か響いたら、それは自身の中で新しい何かが芽生えたことになる。
それは、感情であったり認識であったり可能性であったりする。人によってそれぞれ異なるが、些細な変化1つ1つが素敵な産物である。
受け手の“解釈の自由度”は、文化・芸術分野に限らず、人間の未来へのステップの重要な鍵になるであろう。

人間には理性と感情がある。理性とは感情にたやすく負けるものだ。その感情を育てていかずに未来はないだろう。
言いたいことは「どう感じるかは自由だ」ということ。自分の抱いた感情に心を傾けてほしい。

自由ゆえの創造力への挑戦

感情を育てていくアイテムとして、芸術作品が身近な存在。例えば、ある作品を鑑賞した時、なんとも思わなかったとする。
そういうことも、大いにある現象である。それはいけないことなのか、とふと考えてみる。
それは、決していけないことではない。なんとも思わなかった、という感情がちゃんとあるからだ。
受け手の解釈は自由。自由ゆえに、人間の想像力の先にいくものが見えないのだ。

見えないものを見るのは難しい。空っぽの何かを掴むことは難しい。永遠に掴めないのかもしれない。だが、それは新たな壁なのかもしれないと考えると未来は果てしないと言えるだろう。
見えない何かをみたいと思う好奇心は、未来を創造する。想像ではなく創造である。

もし、日常生活の中で、ふと壁にぶつかったと感じた際に、自身の新たな創造力へのチャレンジとして思っていただけると、新鮮な気持ちで楽しいのかもしれない。もしかしたら苦しいかもしれない。それでも是非、挑戦してみようかな?と思い出してほしいものである。

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